9月1日は「だじゃれの日」です。
「だじゃれの日」 は一般社団法人日本だじゃれ活用協会が制定した記念日。
「ク(9)リエイティブかつイ(1)ンパクト」があるだじゃれは、人と人とのコミュニケーションをより豊かなものにしてくれる「無形文化遊具」であり、だじゃれが秘める無限の「吸(9)引(1)力」を活かし、生活に彩りと潤いをもたらすことで世の中に「救(9)い(1)」を届けたいとの願いが込められている
Wikipedia 「駄洒落」
和歌に掛詞があるように、日本人は大昔から「ダジャレ」が大好き。
ただ、現在ではダジャレは面白いものと思われがちですが、本来は「洒落の駄作」つまり、洒落ようとしたのにつまらないものがダジャレです。
そしてダジャレによって微妙な空気になることも。。。
ということで、この日の問題である「微妙」の本来の意味をみてみましょう。
さらに、洒落とダジャレの違いって? 日本だじゃれ活用協会って? 和歌の掛詞って?なども調べてみました。
問題 「微妙」の本来の意味は?
この日の問題は「だじゃれの日」にちなんで出されました。
問題
「微妙」の本来の由来は?
選択肢は
青 わからない
赤 優れている
緑 ほっぺが落ちる
緑のボケ
今日の 緑 のボケは、「びみょう」ではなく「びみよ(美味よ)」なのだそうです。
「今回はダジャレでいかないことには主旨が合わないから仕方ないですね」と林先生もビミョーな顔でおっしゃっていました笑
答えは?
正解は 赤 の「優れている」でした。
本来の使い方でないときに「ビミョー」と言ってしまう
文化庁の調査(平成 26 年度「国語に関する世論調査」の結果の概要)では、
いいか悪いかの判断がつかないときに「微妙」と言う
が、66.2%と2/3もいました。
そういえば、私もいいとも悪いとも言えないときやあえて判断をつけたくないときに「ビミョー」と言ってます。
「ビミョー」ってコミュニケーションを図るうえでけっこう便利な言葉なんですよね。
「微」の意味、「妙」の意味
微妙の「微」は「かすか」「細かい」という意味。
では「妙」は?
「絶妙のタイミング」といえば「これ以上ないタイミング」ですし、「言い得て妙」という言葉もあります。
このように「妙」には「巧みなこと」という意味があります。
「微妙」は仏教用語
実は「微妙」はもともと仏教の言葉なのです。
「微」を「細やかで奥深く、味わいがある」という意味で使います。
仏の教えを「微妙」と書いて「みみょう」と言うのですが、そこから、明治時代に「微妙(びみょう)」という言葉が生まれたようです。
言葉では言い尽くせないくらい素晴らしい
仏教で「微妙」とは「言葉では言い尽くせないくらい不思議で奥深く素晴らしいこと」を意味しています。
たとえば、読経の前に読む開経偈(かいきょうげ)という偈がありますが、その最初の部分に
「無上甚深微妙法(むじょうじんじんみみょうほう)」
とあります。
「仏の説法は言葉では言い尽くせないくらい不思議で奥深く素晴らしい法」ですよってくらいの意味です。
「微妙」の本来の意味は
『広辞苑』をみると「微妙」とは、
- 美しさや味わいが何ともいえずすぐれているさま。みょう。玄妙。「ーな調べ」
- 細かい所に複雑な意味や味が含まれていて、何とも言い表しようのないさま。こうと断定できないさま。「ーな関係」「彼の出場はーだ」
とあるように、1. が本来の意味なのです。
ただ、現代では2. の「何とも言い表しようのない」という部分が一人歩きする形で使われているようです。
洒落と駄洒落の違いって?
洒落とは「座興にいう気のきいた文句。ことばの同音をいかしていう地口」のことで、つまり、その場の雰囲気を盛り上げる気の利いた言葉のこと。
駄洒落とは「つまらないしゃれ」。
本来の駄洒落はその場がシーン・・・となってしまったり、苦笑が起こったりしたときのものをいうのでしょう。
でも、今は「日本だじゃれ活用協会」という協会があるくらいですから、ダジャレとは「つまらない洒落」ではない新たなジャンルのようにも感じます。
Wikipediaにも
駄洒落(だじゃれ)とは、同じ或いは非常に似通った音を持つ言葉をかけて遊ぶ一種の言葉遊び。
Wikipedia 「駄洒落」
とあるように、ダジャレそのものの意味が本来とは変わってきているようです。
本来の洒落も現代の駄洒落も、知識と教養がないと瞬時に同音異義語を出せないので、その場その場で気の利いた言葉を出すのは難しいのでは?
オヤジギャグも「知識と教養と頭の回転が速いんだなー」と思えば寛容に受け止めることができそうです。
ダジャレ専門サイトなんてのもあって、落ち込んでるときに覗けばクスっと笑えて、心が軽くなりそう。
日本だじゃれ活用協会
日本だじゃれ活用協会は2014年9月1日に設立された一般社団法人です。
Facebookページ「だじゃれは世界を救う!」もあります。
イベントもあって、ちょっと面白そう。
和歌の掛詞
掛詞とは「同音異義の語を用い、 一義を上文に、一義を下文に連関させて、意味の転換をはかり、語調を整える修辞的技巧」(和歌文学大辞典)だそうです。
簡単に言ってしまえば「和歌で使われる修辞法のひとつで、発音が同じか似ている言葉に2つ以上の意味を持たせる技法」。
同音異義語に情景と心情を掛け合わせるという言葉遊びです。
掛詞で有名な和歌といえば小野小町とか小式部内侍あたりでしょうか。
たとえば小野小町
小野小町ですと、
花の色は 移りにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに
が有名。
- ふる・・・降る 経る
- ながめ・・・長雨 眺め
掛詞が2つも使われています。
和歌の意味は
「物思いに耽っている間に、花の色は虚しく失せてしまった」
「春の長雨に降られて、花の色は虚しく失せてしまった」
この時代「花」は「桜」を意味していますが、「色」が移ろいゆくのは「桜」だけでなく「女」と捉えることができるようです。
「わが身よにふる」の「よ」を「世」として「男女の仲」を表しているのだとすると、またちょっと違う意味になってきそうです。
「男女の営みに心砕いて虚しく日々を過ごしているうちに、花が枯れて萎んでいくように年老いてしまった」
アンニュイな春の情景から一気に現実に引き戻されてしまいましたとさ。
「文(ふみ)」と「踏み」
個人的には小式部内侍の和歌が解りやすいと思っています。
和泉式部の娘の小式部内侍は幼い時から和歌が上手で、あまりの上手さに「和泉式部の代作でしょ?お母さんに代作を頼む使者は出した?もう帰ってきた?」とからかわれて詠んだ句が秀逸。
大江山いく野の道の遠ければ まだふみもみず天の橋立
この句の意味は「大江山を越えて、近くの生野へと向かう道のりですら行ったことがないので、まだ母のいる遠い天の橋立の地を踏んだこともありませんし、母からの手紙もまだ見ていません」というような感じ。
- いく野・・・生野 行く野
- ふみ・・・踏み 文(ふみ)
「いく野」は、野を「行く」と「生野」という地名を掛けています。
そして、「ふみ」では「踏み」と「文(ふみ)」を掛けていて、2つの掛詞を駆使していますね。
解説が要らないくらい現代でも解りやすい和歌の掛詞ではないでしょうか。
まとめ
現代ではちょっと否定的な意味合いも含めて使うことの多い「何とも言い表しようのない」意味の「微妙」ですが、本来の意味は、「優れている」でした。
仏教では「言葉では言い尽くせないくらい不思議で奥深く素晴らしいこと」を意味して、仏の法を指してもいます。
ビミョーな空気になってしまうオヤジギャグや緑のボケも仏のような寛容な心で受け止めましょう。