2018年5月15日(金)の依田さんのお天気検定は宮城県の有形文化財でもある観瀾亭から。
観瀾亭ではお抹茶とお菓子を楽しむこともできるようです。
景色を堪能しながら美味しいお抹茶をいただきたいものですね。
「観瀾」とは?
そこで、今日の問題です。
「観瀾」とは何を見ること?
景色を楽しむということは、何かが見えるはず。
いったいどんな景色がみえるのでしょう?
青 波
赤 船
緑 島
正解は・・・
正解は青の波でした。
「瀾」には波・おおなみ・なみだつという意味があるそう。
「説文解字」という後漢の許愼が著した漢字の辞書に「大波を瀾と為すなり」とあります。
橋の手すり「ランカン」って似たような字だったような・・・
でも、手すりは「闌干」「欄干」「欄杆」でした。
「瀾汗」とどちらにも「さんずい」が付くと「波の大きくうねるさま」や「涙のはらはら流れるさま」をいうのだそうです(大字源)
観瀾亭からは松島の波がよくみえるのでしょう。
伊達正宗と豊臣秀吉
観瀾亭は豊臣秀吉が隠居屋敷として建てた伏見桃山城の茶室でした。
その茶室を伊達政宗がもらい受けて江戸の藩邸に移築したそうです。
豊臣秀吉が天下統一のために北条討伐をするとき、北条家と同盟関係にあった伊達正宗は秀吉側の味方につくか北条家につくかで迷っていたため、秀吉につくと決めるのが遅くて秀吉の怒りをかってしまったのだとか。
そこで正宗は、秀吉の側近である千利休にお茶の指導をしてもらいたいと申し出て、秀吉の関心を得たそうです。
その当時、茶の湯は武将たちの間では精神修行のためや、密談などをする政治のためのツールでもありましたから、伊達正宗はそれを上手く利用したのかもしれません。
さて、伊達正宗の藩邸に移築された伏見桃山城の茶室ですが、陸奥仙台藩の第二代藩主である伊達忠宗が「柱1本変えないように」と命じて現在の観瀾亭のあるところに移したと伝えられています。
ちなみに依田さんも言っているように観瀾亭と命名したのは、陸奥仙台藩の第五代藩主です。
伏見桃山城にあったころの名前はどんなだったのでしょうね。
かつては豊臣秀吉がお茶を点てていたであろう茶室、そして、伊達正宗が波を観ながらお茶を楽しんでいたであろう茶室で、現代の私たちがお抹茶をいただけたら素晴らしいですよね。
傘亭・時雨亭
伏見桃山城には観瀾亭のほかにも「傘亭」「時雨亭」という2つの茶室がありました。
これらの茶室は、豊臣秀吉の正室であるねね(北政所・高台院湖月心尼)が秀吉の冥福を祈るために建てた高台寺というお寺に移築されています。
傘亭は利休好みの茶室といわれ、茅葺きに天井が竹で組まれているという茶室。
その天井が唐傘に似ていることから「傘亭」と命名されました。
時雨亭は茶室としては珍しい2階建てです。
伏見桃山城にあったときは傘亭とは別々のところに建っていたようですが、高台寺に移築した際に傘亭と屋根つきの土間廊下でつなげたのだそう。
2階建ての茶室とはどんなものなのか、ぜひみてみたいものです。